エゾオオカミ

エゾオオカミ

  • ハイイロオオカミ

    習性などはハイイロオオカミに類似すると考えられる、1頭のオスと1頭のメスを中心に、前の年の子、前々年の子を含めてふつう7頭から13頭で暮らし、時に30頭以上の大きな群れも見られたかもしれない、地中で巣を作りそこで平均6頭の子供を出産する、獲物は主にエゾシカでアイヌ人は鹿を狩る神と呼んだ、また狩をする神とも呼ばれ尊ばれた、これ以外に正確な生態の情報はない。
    北海道の開拓が始まると本土からの移住者が増え、エゾオオカミの行動圏であった野原が耕地や牧場に変わっていった、オオカミの主要な獲物であるエゾシカが次第に減り放牧した馬の被害が急増したため、開拓使はは1876年から賞金を出してオオカミの駆除を推奨した。
    だが1879年1月から2月にかけて、北海道全域は未曾有の大雪に見舞われた、札幌ですら例年の2倍以上、3mあまりの積雪である、この雪でエゾシカが大量死した日高の鵡川地区だけで75000頭が死に十勝川支流の利別川流域では、春になって上流域で大量死した鹿の腐敗が起こり、川の水を飲む事が出来なくなったという。
    オオカミは急速に数を減らし被害がなくなったため奨励策を廃止したが、こりわずか12年間の奨励策で1539頭のオオカミが捕獲された、この間官庁も別に駆除を行ったためこの期間中の全捕獲数は2000から3000頭に上ると推定され、エゾオオカミは回復不可能な打撃を受けた。
    函館の毛皮商人松下氏が本亜種の毛皮を扱ったのは1896年の数枚が最後で、この後間もなくして北海道では絶滅したと推定される、それで、北海道では1900年頃に絶滅したとされる訳である。
    しかしもう少し後にもエゾオオカミを見たという話は残っている、襟裳岬の東にある音調津に住む吉田権三郎氏は日高動物記の中で、幼少期に遭遇したエゾオオカミについて述べている、それによると「1921年頃、父に連れられて庶野へ旅人を送った帰り道、十勝と日高の国境にあるビタランケの浜に出ようとしたとき4頭のエゾオオカミが現れた」という。「恐ろしかったが、父親が大声で怒鳴っているうちに、オオカミは引き下がっていった、鳴き声は犬によく似ていたが犬とは違ってドスの利いた太い声である、夜中に見たり鳴き声を聞いたりした事もなかったが早朝には時々見ることもあり、オオカミも真夜中は活動していないようだ」と述べている。
    北海道産のエゾオオカミの標本は、北海道大学農学部付属博物館に本剥製が雄雌各1点、頭蓋が雄雌各1点、北海道静内郡アイヌ民族資料館に雄の頭蓋1点、大英博物館にオスの頭骨1点が知られているだけである。北大の標本の内1点は1887年頃撃ち取られたものだといわれている。


このページの先頭へ