フォークランドオオカミ

フォークランドオオカミ

  • フォークランドオオカミフォークランド諸島は南アメリカ南端から東方約500kmの位置にあり、最高点は770mあまりの山がちの荒涼とした小島(面積1万2000平方km、四国の約3分の2)で、荒天の日が多く、風が強く、夏はかなり高温になるが、その他の季節は冷涼である、樹木が生育せず、ほとんどが不毛の地か草原で、農産物は取れない。
    この諸島は1592年にイギリスの航海家デービスが発見したときには無人島であった、それから何回も探検家たちが訪れたらしく、1690年にはキツネともイヌともつかない動物が生息していることが発見された、後にこの島から持ち帰られたその動物をケルという学者が調べ、1792年にフォークランドオオカミと命名して、アニマルキングダム誌に発表しているのである、その後フランスが植民地にしようとして失敗、1832年にイギリスは捕鯨基地とする目的で領有宣言し、現在に至っているという島である。
    1823年、フランスが植民地化しようとしていたときのことだ、船乗りと薬剤師でゴクラクチョウを研究したルネ・プリムヴェール・ルソンは、フォークランド諸島にはマゼランペンギンが生息するが、独特のペンギン狩りについてこう述べている、「10人1組のグループ8組が棍棒を手に繰り出した、彼らはそっと進んでいき、道という道を塞いで鳥を叩きのめした、頭を打ち砕かれてペンギンたちは立ち上がることも逃げることもできなかった、胸張り裂けんばかりの悲鳴を上げ、猛り狂って彼らを突っついて身を守ろうとしていた、5時間から8時間のうちに、60羽から80羽が虐殺された。」その死体は橇イヌの餌になり、皮と脂肪は燃料代わりに燃やされた、極地探検家たちは食料が残り少なくなってくると、ルソンが「ひどくまずい」と書いているその肉を食べたという、ここにはフォークランドオオカミについての記述はない。
    イギリスは領有を宣言した2年後のこと、つまり1834年3月のこと、かの有名なチャールズ・ダーウィンがビーグル号に乗ってフォークランド諸島に着いた、彼はすぐに昆虫や植物を大陸のものと比較し始めた、彼はどんな微細な点も見逃さなかった。
    「1羽のヒメウが魚を捕らえ、それを8回も放しては捕まえるのを見た、ネコがネズミで、カワウソが魚でやるのと同じようだ、ヒメウの残忍さ」ダーウィンはロバのような声で鳴くマゼランペンギンと対決して大いに楽しんだ、彼は「ペンギンは翼を鰭として使い、ある種のガンしそれを櫂として、レアは帆として使う」と記している、そして問題のフォークランドオオカミについて、ダーウィンは「フォークランドオオカミというおかしな獣が沢山棲息しており、まったく人を恐れず、上陸した男たちを悩ませた」と記録している。そのオオカミはキャンプの食料を盗んだのである、フォークランドオオカミはマゼランガン、アザラシの子供、マゼランペンギン、そして家畜の羊を捕食した。
    しかし、この島にはその後続々と移民が入り込み、フォークランドオオカミはその生活場所を失った、巣穴は海岸近くの砂丘に作られた、そのような所は羊などの牧場が広がっていったのである、まったく人を警戒しないこともあって撲殺、毒殺が容易で、絶滅への道は急だった、つまり1800年代末にヨーロッパ人の移住によりフォークランドオオカミは絶滅した。
    おそらくこのオオカミの最後の固体は1876年に殺されたもののようである、ダーウィンの一行は数頭の生きた標本を入手しロンドン動物園に送っている、だが彼らはそこでは繁殖しなかった、現在その標本は11点残るのみである。
    なぜ南アメリカ大陸から450kmも離れたフォークランド諸島に入ったのか、これまで多くの観測がなされてきたが、その起源は曖昧である、流木に乗ってわたったという説があるが海流からしてこれには無理がある、先住民が大陸で家畜化したクルペオギツネを同諸島へ持ち込んだともいわれるが、南アメリカには家畜化されたグルペオギツネはいないし、同時にその諸島をヨーロッパ人が発見したときにもグルペオギツネを飼育する人はいなかった、したがってフォークランドオオカミは人間によって持ち込まれたものではなかろう、おそらくフォークランドオオカミの祖先は更新世に海面が低下した間に移り住んだものに違いないのである、南アメリカにいるダチョウのような無飛力の鳥のレアがいるとダーウィンは記しているが、これもフォークランド諸島が南アメリカ大陸と陸続きになった事があるという証拠のひとつであろう。


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